自己紹介と安井のストーリー

安井一彦です。

ぼくの経歴を含めたプロフィールをストーリーとしてこのページでまとめます。

プロフィールをまとめる目的はぼくの経験した出来事から強みを定義しておこうと考えたからです。

強みを明確にするステップを効率良く行うために合同会社シンプルワークス【内藤勲】さまが提供されている【自分の強み見つけてファンになってもらう3ステップ】を活用させていただきました。

>>自分の強み見つけてファンになってもらう3ステップはこちら

このプロフィールページではぼくが実際に経験した出来事を詳しく解説するため別サイトでアップした記事を要所要所で取り上げています。

脊損の問題を解決した体験と趣味のギターを取りあげている個人ブログ

>>【全力脊損】クルマいす人生を楽しむ方法

脱サラして開業した自家焙煎珈琲とスモークチーズの移動カフェのブログ

>>自家焙煎珈琲とスモークチーズの移動カフェ【Koyomicafe】

参考にしていただければと思います。

ではよろしくお願いいたします。

自己紹介

京都府京都市出身

1968年9月生まれ

血液型 A型

家族構成 10歳年下の妻
     女の子の柴犬

たいして上手くもないギターの腕前なのにギターばかり欲しがるクセがあります。

おかげで自宅にはいま5本のギターを所有しています。

愛犬の柴犬との散歩が日課です。

安井一彦の経歴紹介

ぼくの経歴を簡単に紹介しておきます。

いばれるような学歴と実績はありませんが、ぼくの生き方と人生が詰まっています。

  • 中学卒業と同時に鉄工所に就職
  • 定時制高校に入り直す
  • オートバイ事故で脊髄損傷の大怪我を負う
  • 障害者雇用事業所への就職
  • 手動装置を取付け改造認可を受けたサイドカー付きオートバイに乗る
  • 車いすフェンシングに出会い世界選手権出場する
  • ライブハウスで弾き語り演奏を始める
  • 競技生活とさまざまなチャレンジが評価され学校講演の依頼を受け始める
  • 移動カフェを開業
  • 障害者人生でチャレンジしてきた体験を社会に役立つものにしたいとアクティブチューニングを開設

もっと詳しい内容はこちらのページでまとめています。

>>代表者の経歴

それではぼくが経験した出来事をストーリーとして紹介します。

【幼少期と家族を襲った事件】

左官職人の貧乏暮らし家庭で育つ

ぼくは京都市出身の父親と母親から長男として生まれます。

1歳年下の妹と4人家族で貧乏暮らしの家庭で育ってきました。

京都市西京区の桂という場所で生まれましたが幼稚園に入るまでの短い期間だったのでまったく記憶に残っていません。

その後、一家は右京区嵯峨野の風呂なしの台所・トイレ共同のアパートに移り住みます。

いま思うとめちゃめちゃ昭和な物件です。

嵯峨野には小学校3年の終わりまで暮らしました。

その当時、テレビでは沢田研二さんと山口百恵さんが流行っていてぼくは【勝手にしやがれ】の歌詞を暗記し「出て行ってくれえ~あーああー♪」とかやってました。

嵯峨野で暮らしたアパートは風呂がなく30分くらい歩いた銭湯までいかなければならず真冬に堪えるという理由で伏見に引っ越します。

この伏見でぼくは小学4年から成人するまで暮らすことになります。

伏見区に引っ越した場所は向島という地名で琵琶湖から注がれる宇治川を挟み豊臣秀吉が築いた伏見桃山城の対岸にあたります。

お酒が有名なところで近所には有名な酒蔵が存在します。

そんな酒造りに特化した地域のせいか学校では日本酒の一升瓶のフタを収集するという遊びが流行っていました。

収集にエスカレートしたぼくたちはお酒の瓶が積み上げられたケースの山によじ登りフタをもぎ取る行為と周囲からの通報により学校に行っては先生に怒られるという毎日を送ります。

家族を襲った悲劇

嵯峨野から向島に越してきて数か月経った9月のお月見の夜の出来事です。

ぼくたち家族は近所の人たちと外に出てお月見の夜を楽しみワイワイやっていました。

そんな時間を過ごしていてぼくは父親の姿が見えないことに気が付きます。

なんとなく気になってアパートのある敷地からぼくは離れて父親を探しに行きました。

すると約100メートルほど離れた薄暗いアパートの踊り場で父親が倒れていたのです。

恐る恐る近づいていくとお腹にナイフが刺さっています。

必死に走って自宅アパートの敷地にもどり近所の人に父親が倒れていることを伝えます。

現場は騒然です。

パトカーが到着し父親を襲ったア〇マがちょっとイっていた犯人はすぐに逮捕されました。

救急車に担ぎ込まれた父親に付き添って母親も病院に向かったためぼくら兄妹は住んでいたアパートの隣で暮らす夫婦に手を引かれ現場をあとにします。

立ち去る時、パトカーに乗せられていた犯人を睨むようにと促した婦人の言葉と音声がいまでも鮮明に耳に残っています。

幸いにも凶器は急所を外れていて父親は手術のおかげで助かりました。

しかしぼくは明くる日から朝ごはんを食べては吐くという現象が現れ学校に行けなくなります。

きっと今でいうPTSDと呼ばれる症状だったのでしょう。

しかし当時はそんな言葉もケアもなくぼくは一人で闘うしかありませんでした。

自分の父親が刺された直後の現場を見てしまったぼくは精神が破綻するような酷い症状はおきませんでした。

しかし人間を心の底から信頼するような気持ちは持てなくなりました。

つまり人をどこか警戒するような態度と気持ちを抱えて生きていました。

しかしその出来事から数年後にぼくにある環境変化があり気持ちが変わっていきます。

それはオートバイ事故によって脊髄を損傷する大けがを負ったぼくは車いすの人生を生きることになったからです。

【中学生時代〜鉄工所に就職〜オートバイ事故で脊髄損傷】

家が貧乏だったぼくは中学2年のころ皿洗いのアルバイトを始めました。

目的はレコードプレーヤーを買うことです。

アルバイトをしてでもレコードプレーヤーがどうしても欲しかったのです。

当時カセットデッキが2つとラジオ、ターンテーブルが一台にまとめられているモジュラーステレオが手頃な価格で販売されていました。

ぼくは電気屋さんで見かけたコロンビア製の約3万円のモジュラーステレオをニチイ(サティ⇒イオン)の喫茶店と王将の皿洗いで働いたお金で購入しました。

中学生を店で働かせてくれた昭和の時代に感謝です。

レコードプレーヤーを手に入れた中学生当時はまだアニメのレコードを聴いている程度でした。

しかし中学を卒業した頃にレンタルレコードが登場し始めると音楽の世界が一気に広がります。

ハードロックやヘビメタのバンドを発掘しカセットに録音した音楽を楽しんでいました。

その後、ぼくの人生で音楽との出会いはエレキギターの購入⇒ライブハウス演奏に発展しています。

(ギターの腕前はコードが弾ける程度です!)

中卒で就職

勉強が苦手だったぼくは高校に進学せず、中学卒業と同時に金型製作の会社に就職します。

工場では作業前にコーヒーを飲む習慣があり、ぼくはコーヒーを淹れる当番を任されます。

この時、まさか27年後に自分がコーヒー屋を始めることになるとは考えてもいませんでした。

この会社でぼくは金属に穴を開けるボール盤や切削加工を行うフライス盤を使う作業を経験します。

この経験が脊髄損傷の怪我を負った後にサイドカーでオートバイに再び乗るためのバイクの改造に必要な加工作業に役立ちます。

オートバイにのめり込む

この鉄工所に就職した数ヶ月後にぼくは念願叶ってヤマハDT50というオフロード風のトレールバイクを購入します。

このバイクを選んだ理由はロードレースのステップアップのためにオフロードでの経験が活きるのではと考えたからです。

しかしオフロードコースでジャンプしたりハードなコーナリングでバイクを壊してしまいます。

この失敗から原チャリのオフロード風バイクで本格的なモトクロス走行はできないと分かります。

そこでモトクロスレース用の専用バイクを買うことを決意し中古で友達のお兄さんからヤマハのYZ80という競技車両を譲ってもらいました。

毎週土曜日の夜はバイクを整備し、日曜日は朝早くから河川敷のモトクロスコースまでバイクを押して通いました。

YZ80を手に入れたおかげでジャンプを飛んだり、コーナリングでのカウンターステア(逆ハンドル)でバイクをコントロールする面白さを経験しました。

このとき同時にオートバイレースの最高峰である世界GP500レースに強い憧れを抱いていました。

将来は世界選手権レースに出場したい。

そんな淡ーい夢を持っていました。

オートバイ事故で脊髄損傷

将来を考えて鉄工所を辞め、定時制高校に入学しなおして間もない頃でした。

ぼくは中学1年の頃に少年ジャンプで連載されていた【街道レーサーGo!】というマンガの主人公が乗るヤマハ製オートバイに憧れついに系統モデルの【RZ250R】を全力36回分割払いで買いました。

事故を起こした当日はちょうどアルバイトが休みで夕方の学校の時刻までたっぷり時間があったので初めて行く峠道を目指します。

目的地に到着しひとしきり楽しんだタイミングで学校の時間に間に合わないことに気づきました。

帰路を急いだぼくはスピードを出していました。

初めて走る峠道だったこととスピードが出ていたせいでカーブを曲がりきれず転倒し脊髄を損傷します。

この事故でぼくは下半身不随の身体障害者となり立つことも歩くこともできない体になってしまいました。

しかしですね、この出来事は不幸な側面だけではなかったのです。

なぜなら車いす生活で人生を生きるということは人の手助けがなければ成立しない場面があります。

例えば観光に出かけた場所で階段に上げてもらったり、急な坂道で車いすを押してもらったりです。

人間をどこかで警戒し生きてきたぼくにとって車いすの介助を受けることで他人との関わりを築くようになりました。

>>【ツーリング体験記】車いすユーザーがサイドカー付オートバイで単独フェリー旅を実現した方法

それこそ見ず知らずの他人さまに声をかけて貰って助けてもらうような出来事は幾つも体験しています。

そんな経験がぼくの心をケアしてくれたのでした。

【社会復帰〜挑戦と出会い】

運び込まれた病院での入院生活から完全な社会復帰まで3年間の訓練を経て車いすでも就職できる事業所で会社員生活をスタートしました。

この事業所は大手電気機器メーカーの産業機器生産を担う組織にあたりぼくは22年間務めました。

この事業所の特徴は障害者を優先的に雇用する会社で脊髄損傷はもちろん知的障害や半身まひの人などいろいろな障害を持つ人を雇用される職場でした。

ぼくはこの職場で生産ラインの班長として生産管理や改善業務を担当しました。

つまり障害を持つ作業者の個々のハンディに合わせて器具や装置の工夫で設備改善を行い生産効率に反映させることが大きな目的です。

22年間の会社員生活で問題解決の方法とリーダーシップを学びました。

いま振り返るとこの職場で経験したことがぼくにとって大きな財産となっています。

オートバイへの挑戦とフェンシングとの出会い

社会復帰してクルマも手に入れ、自由に行動できるようになったぼくは特に夢中になれるものもなく毎日を過ごしていました。

ぼくはリハビリ専門の訓練施設に入所したときに知り合った同じ障害を持つ人から車いすバスケを勧められ数ヶ月間ですがバスケに取り組んだものの夢中になれず辞めていました。

たぶん自分には団体競技は向いてなかったのでしょう。

それに周囲が障害者スポーツを無理強いすることに納得ができない気持ちがありました。

スロープやトイレなど完全に整備された体育館という限られた空間に障害者が大勢押し込められ集まって何が楽しいのか?

当時のぼくはそんなひねくれた感覚を持ってたのです。

そこで僕が時間を注いだのは音楽を楽しむことでした。

中古のエレキギターを友人から譲り受けアーティストの演奏をバリアフリーとは無縁のライブハウスに聴きに行ってました。

そんな捻くれ者のぼくは大勝負にでます。

病院で構想を練っていたサイドカー付きオートバイに乗るため行動を起こしました。

警察と運輸支局に交渉しオートバイに乗る

健常者だったころ今でいうMotoGPにあたる世界選手権オートバイレースに出場する夢を持っていました。

しかし下半身不随の身体になってしまいレースどころかバイクにも乗れない状態です。

僕がオートバイにどれほど心を寄せていたのかを知って頂くために入院中のある出来事を紹介します。

入院当時に仲良くなった病棟の友達が退院し自分が乗っていた同じバイクを買ったので見せに来てくれました。

ケガをしなければ乗っているはずだったオートバイで走る彼の姿を眺めていると惨めで悲しい気持ちになりました。

処置があるからとさっさと病室に引き上げたぼくは信頼していた看護師さんの前で号泣しました。

それほどオートバイに乗れなくなった事が悲しく受け止めきれなかったのです。

その出来事から8年後に、社会復帰したぼくはサイドカー付オートバイでバイクに再び乗る夢を実現しようと動きだします。

警察と運輸支局に幾度も交渉し合法的に下半身不随の身体でオートバイに乗る条件を認めてもらいました。

>>車いす人生を送る障害者がオートバイに乗る夢を実現した方法【脊損のライダー復帰体験記】

>>下半身不随の車いすユーザーがサイドカー付きオートバイに乗るためのカスタマイズ方法

>>サイドカーの特性と乗り味!側車付きオートバイのライディング方法と注意点
 
そしてオートバイレースで果たせなかった世界選手権への夢はケガから16年後に車いすフェンシングに出会う事で叶います。

まさに【思考は現実化する】がリアルな体験となりました。

この経験で想いを抱き続けることが大切だと考えるキッカケになりました。

【車いすフェンシングとの出会い】

マレーシアで開催された試合の模様

あれほど反発していた障害者スポーツに自分がのめり込むなんてあり得ないと思っていました。

しかし運動不足解消のため個人的にプールで泳いでいたぼくは監視員から車いすフェンシングに誘われます。

1週間後に練習を見学した僕はその出会いがキッカケで車いすフェンシングの日本代表選手として約10年の競技生活を送りました。

車いすフェンシングの出会いで得られた経験とつながり
  
【挑戦の体験と学校講演】

オートバイへのチャレンジと車いすフェンシングでの世界選手権出場とパラリンピックへの挑戦が評価され学校講演の依頼を受けるようになりました。

高卒の学歴も持たない障害者の自分が講師として生徒さんの前に立つなんてケガを負った入院生活では考えることさえも出来なかったです。

人生って不思議なもんだとしみじみと思った瞬間です。





直近の講演レポートはこちらの記事でまとめています。

【講演レポート】城陽市立古川小学校での障害者理解教育授業の内容と評価



【音楽での体験】

音楽が好きでエレキを練習していたぼくは音楽仲間との出会いがキッカケでアコースティックギターでの弾き語り演奏を始めます。

友達からライブハウスで演奏してみたら?と勧められました。

しかし出演しようとするライブハウスはバリアフリーなんて無縁です。

お店は地下にありエレベーターなんてありません。

ステージには階段があり車いすでは上がることはできません。

しかしお店の理解とサポートのおかげで人間バリアフリーが展開され弾き語り演奏を経験できました。

この出来事は新聞にも取り上げて貰えました。

【起業へのチャレンジ】

車いすフェンシングの競技生活と会社員の両立はなかなかハードな毎日でしたが充実した日々を送ることができました。

しかしぼくは次第にこの仕事に物足りなさを感じていきます。

次第に人に直接喜んでもらう事ができるような仕事に関わりたいと思うようになりました。

そう感じるようになったのはライブハウスでの演奏体験があったかも知れません。

自分が作ったモノを直接お客さんに届けて喜んでもらいたい。

その想いはカフェという形に向かいます。

夢をカタチにしたくて料理教室にも通います。

>>大阪ガスクッキングスクール

このスクールは専業主婦のおばさまや料理を学びたい女性がほとんどで男性はぼくだけでした。

しかも車いすを使う障害者です。

当然スクール側はウェルカムな印象ではなかったです。

けれど同席させてもらったグループのおばさま達がぼくの参加を快く受け入れてもらったおかげでずっと通い続けることができました。

創業塾に参加する

創業のノウハウを知るためにぼくは商工会主催の創業塾に参加することにしました。

このご縁でスモークチーズを作るための農園との出逢いにつながりました。

移動カフェの開業

カフェを開業したいと夢見ていたぼくでしたが問題は接客と料理の提供です。

車いすで料理をテーブルまで運ぶなんて無理があるし、お客さんだって落ち着きません。

そこでいろいろと方法を検討し自動車のワンボックスカーを改造した移動カフェの形で開業することにしました。

>>自家焙煎コーヒーとスモークチーズの移動カフェコヨミカフェ

会社員で担当した22年間の設備改善のノウハウとアイデアを活かして車いすのぼくでも対応できる移動販売車を作り上げました。

開業当初は仕入れた珈琲豆でハンドドリップコーヒーと自分で燻煙したスモークチーズを提供していました。

しかしだんだんと他人が焙煎したコーヒー豆では満足できなくなり焙煎機を購入し自家焙煎に挑戦します。

そして独学が身を結び自家焙煎コーヒーのお店としてハンドドリップコーヒーの提供をスタートしました。

その努力のおかげで規模の大きなイベントにも出店の依頼を受け、雑誌にも取り上げてもらえるようなサプライズも経験しました。

しかし、突然の焙煎機盗難で廃業を余儀なくされる事態となります。

あらたな焙煎機を購入する資金もなく借入も厳しい現状を考えると廃業が妥当と判断しました。

廃業するのは簡単ですが、問題は職探しです。

ここでまたつながりに助けられます。

車いすフェンシングの練習で利用していたスポーツ施設でスタッフを募集していたのです。

ぼくはこの職場にタイミング良く潜りこみ、東京パラリンピック出場を目指した練習も再開しました。

【挑戦体験を学校講演で伝える】

ぼくは授業のなかで車いすの身でオートバイに挑戦したこと、障害のある生活で感じること、パラリンピック競技をテーマに生徒さんの心に火を灯す取り組みをしています。

もしオートバイに興味を持たなかったら・・・

車いす人生を送ることがなかったら・・・

もし車いすフェンシングに興味を示さなかったら・・・

ぼくは学校講演で生徒さんの前に立つことはありませんでした。

自分の人生と経験が人さまや社会に役立つものになるのでは?と考えるようになりました。

障害者の自分でも社会に貢献できるかもしれない・・・

こうした想いがこのサイト【https://active-tuning.com/】の開設につながっています。

直近の講演の模様を下記の記事でまとめています。

>>【講演レポート】城陽市立古川小学校での障害者理解教育授業の内容と評価

まとめ

長いプロフィールの文章でしたがこうやって振り返って見るとムダなことはやって来なかったんだと思いました。

こうした自分自身の経歴をまとめるとぼくは自分の強みを次のように定義できると考えました。

【安井の強み】

  • 厳しい出来事を乗り換えてきた経験
  • チャレンジし切り開いてきたガッツと経験
  • 跳び込む勇気
  • 好きを大切にする気持ち

ここまでの洗い出しの結果からぼくの強みを一言で表すなら【行動力】とと言えるのではと思います。

そしてぼくが大切にしてきた事は【出逢い】だったように思えます。

ぼくのこの行動力をガソリンにしてサイドカーと世界選手権への出場、移動カフェの開業などの夢を実現してこれました。

こうした経験はぼくの【宝物】となりました。

きっと誰にでも出逢いとチャンスは訪れます。

自分には出逢いとチャンスなんてない!

果たしてそうでしょうか?

出逢いをチャンスにするためには自分自身の在り方が大切だとぼくは経験から学びました。

自分の在り方を変えれば見えてくるものや風景が変わります。

断言します。

ぼくは自分の経験と強みをバックボーンにまだやりたいことが見つからないと悩む人が【宝物】に出会うお手伝いを展開していきたいと思っています。